天下五剣の内の一振りに数えられる童子切安綱。
大包平と並んで「日本刀の東西の両横綱」とも称されるこの名刀は、国宝にも指定されており、国宝指定名称は、
太刀 銘安綱(名物童子切安綱) 附 絲巻大刀 梨地葵紋散蒔絵大刀箱
(たち めい やすつな めいぶつどうじぎりやすつな つけたり いとまきたち なしじあおいもんちらしまきえたちばこ)
と言います。長い…^^;
童子切安綱はいつ頃、誰が作った刀?
童子切安綱は、平安時代中期の刀工・大原安綱が作った刀です。
現存する拵えは安土桃山時代に制作されたもので、それ以前の姿については分かっていません。
酒呑童子退治に用いられた刀である、という伝説はあまりに有名ですが、他にも下記のような出来事が伝え残っています。
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浮かんだ錆を落とすために本阿弥家に持ち込んだところ近隣の狐が次々と本阿弥家の屋敷の周囲に集まってきた
(これとは逆に狐がその刀の威光を恐れて逃げたという話もあります) - 松平光長が子供の頃、なかなか夜泣きが治まらなかったのが、枕元に童子切を置いたら途端に泣き止んだ
凄まじい切れ味を示す、試し切りの結果
松平家が津山藩主となった頃、町田長太夫という試し切りの達人によって、童子切の切れ味の凄まじさが証明されました。
町田長太夫が振るった童子切は、折重なった六体の死体を一刀の元に切断しただけでなく、その土台にまで刃が食い込ませたといいます。
童子切安綱の所有者たち
伝説の名刀、けれど秀吉は手元には置きたがらなかった?
源頼光が大江山の酒呑童子の首を切り落とした際に使ったと言われる伝説の名刀・童子切安綱は、その後、足利将軍家へと渡り、15代足利義昭から豊臣秀吉に贈られました。
しかし、秀吉はなぜかこれを手元には置きたがらず、本阿弥家に預けたといいます。
数々の名刀を収集していた秀吉が、童子切ほどの名刀を手元に置きたがらなかった理由は一体なんだったのか…、それを現代に生きる私たちには知るすべはありませんが、後の世で童子切を手にした人々の中には、哀しい運命を辿った人もいたようです。
徳川二代将軍・秀忠の娘、勝姫
世が徳川の天下になると、童子切もまた、徳川家へと渡りました。
そして徳川第2代将軍・秀忠の娘である勝姫が、慶長16年(1611年)11月、越前北ノ荘藩の松平忠直に輿入れをした際、童子切は勝姫の嫁ぎ先、松平家へと与えられます。
松平家に異変があったのはその翌年のことでした。
松平家の重臣達の間で起きた確執が高じて、武力で鎮圧せねばならないほどの大騒動となったのです。
結果、重臣二名が配流(島流しの刑)となり、忠直は「まだ若く力量が足りない」と幕府から評価されることとなります。
また、その二年後の慶長19年(1614年)大坂夏の陣では、忠直はかの有名な真田信繁(大河ドラマ「真田丸」の主人公)らを討ち取るという目覚しい武功を立てるのですが、その戦の後で行われた論功行賞で満足のいく恩賞を与えられず、幕府への不満を募らせます。
忠直は次第に心を病み、体調不良を口実に参勤を怠るなどの問題行動を取るようになりました。
映画「超高速!参勤交代」
この時代、参勤交代を怠るというのは大変なことだったようです
そして元和8年(1622年)、とうとう徳川家から来た妻・勝姫を殺害しようとします。
勝姫の侍女二人が身を挺して姫を守ったことで勝姫は何とか助かりましたが、この乱行は当然、勝姫の父・徳川秀忠の知るところとなり、忠直は豊後国で隠居させられることとなったのでした。
ただ、隠居後の生活はとても穏やかだったようで、配流となった豊後で新しい奥さんを貰い、子をもうけ、それなりに幸せに暮らしていたようです。
松平家には跡継ぎとなる男子・光長がいましたが、まだ幼かったため、越前北ノ荘藩は忠直の弟・忠昌が継ぎ、光長は越後高田藩26万石へと転封(領地替え)になりました。
童子切を受け付いた勝姫の子、光長
愛娘とその娘婿の自死
忠直の隠居後、童子切安綱を受け継いだのは光長でした。
だからなのか何なのか、光長とその母・勝姫の不幸は続きます。
勝姫の孫、つまり光長の娘である国姫が、嫁ぎ先で35歳の若さで自殺してしまうという悲しい事件が起きたのです。
事の発端は、勝姫と光長による国姫の嫁ぎ先の後継者問題への強引な介入でした。
国姫には男子がいなかったため、国姫の夫である松平光通は妾腹の男子・権蔵を跡継ぎにしようと考えていたようです。
これに勝姫と長光が猛反対し、跡取りは正室・国姫の産んだ子以外認めないと、国姫の夫に猛烈なプレッシャーを掛けました。
このころから国姫と夫・光通の関係は急速に悪化。
勝姫と光長のかけた圧力は、光通だけでなく国姫をも苦しめ追い詰めていきます。
結果、当時35歳になっていた国姫は、
「自分はもう子を望める年齢ではない」
「おばあ様や父上のご期待に沿えず申し訳ない」
と自ら命を絶ってしまうのでした。
しかも、跡取りと目されていた妾腹の男子は、国姫が死んだのはその男子のせいだ、と勝姫と光長から命を狙われたため、逃げるように城を出奔しました。
天災続きで財政難を抱えた国政、親族からの圧力、妻を、そして跡取り息子を失ったことで、松平光通もまた心のバランスを崩してしまったのでしょう。
国姫の死から3年後の延宝2年(1674年)3月24日、光通も自殺してしまいました。
跡継ぎの死と跡目争い
光長には、その後も苦難が続きます。
嫡子である綱賢が42歳の若さで没してしまうのですが、綱賢には子がなく、これが世継ぎ問題へと発展。
重臣たちの争いが激化し、長期に渡って藩内を混乱させました。
奇しくも、かつて重臣らの起こした内乱が元で幕府から「力量が足りない」という評価を受けた父・忠直と同じように、光長もまたこの騒動により藩主の任を解かれ、配流の処分を受けることになってしまいます。
6年後には赦され、右近衛権中将に復任し、越後守を兼任することになるのですが、移り住んだ江戸・柳原の屋敷が火事になって焼失したり、嫡子として迎えた男子と合わなかったのか、廃嫡するなど、老年になってもなかなか落ち着くことが出来ません。
光長がやっと落ち着いて暮らせるようになったのは、80歳ごろ、家督を養子の松平長矩に譲った辺りからです。
家督を譲ったあとの十数年は、それまでの波乱の人生が嘘のように穏やかに過ぎていきました。
なお、童子切安綱はその後、津山藩主となった松平家の家宝として昭和の時代まで伝来しました。
松平家から離れた童子切安綱は…
昭和8年(1933年)1月23日、童子切安綱は国宝に指定されます。
第二次世界大戦が終わると松平家から売りに出され、数名の個人が所有しますが、昭和38年(1963年)3月、文化庁によって2630万円で買い上げられ、東京国立博物館所蔵に所蔵されることとなり、現在に至ります。