【石切丸】酒呑童子を退けた降魔の剣

歴史上に「石切丸」と呼ばれた刀は数本ありました。
そのうちのひとつが、酒呑童子退治に用いられた伝説を持つ石切丸です。

石切丸は、いつ頃誰が作った刀?

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石切丸は謎の多い刀です。
まず作者ですが、銘が「河内有成」となっています。
有成は平安時代の刀工・三条有成のことなのですが、その正体は、かの「三日月宗近」や「子狐丸」を鍛えた三条小鍛冶宗近だと言われています。
ただ、その一方で「有成は宗近の子の名前だ」とか「弟子の名前だ」とか「弟子の子の名前だ」など諸説あり、結局誰のことなのかあまりはっきりしていません。

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石切丸の所有者は?

碓井貞光(うすいさだみつ)が酒呑童子退治に用いた降魔の剣

石切丸と呼ばれる刀は、歴史上複数本あります。
そのうちのひとつが、「頼光四天王」のひとり碓井貞光(うすいさだみつ)が、主君の源頼光らと共に酒呑童子を退治した際に用いたという石切丸です。

酒呑童子の伝説とは
一条天皇の御世において、ある時、京の姫君や若君が次々に神隠しに遭うという事件が起こりました。
そこで、天皇が阿部清明に原因を占わせたところ、大江山に棲む酒呑童子の仕業だということが判明。
源頼光が、四天王を率いて討伐に向かいます。

頼光たちは最初、旅の者を装って鬼たちに友好的に近付きました。
そして鬼に毒酒を飲ませて泥酔させ、寝込みを襲って鬼たちを討ち取ると、その首級を京へと持ち帰りました。首級は帝らが検分したのちに宇治の平等院に納められたと言います。

ちなみに酒呑童子の伝説は伊吹山や大和国のものもありますし、頼光らが取った鬼の首級も、伝説によってその最後が異なっていたりします。
たとえば、首だけになった鬼が頼光の兜に喰らい付いた、とか、友好的に近付いたくせに酔わせてだまし討ちにした頼光らを激しく罵った、などです。

また、酒呑童子を倒したとされる刀は、名刀「童子切安綱」だとする説もあります。

源頼朝の兄、源義平

源頼朝の兄、源義平が所有していたとされる約4尺にもおよぶ大太刀もまた、石切丸と言われていたそうです。
こちらも銘は三条有成となっていたそうですが、定かではありません。

石切劔箭神社

現存する石切丸は、東大阪市にある石切剣箭神社所蔵(いしきりつるぎやじんじゃ)で重要美術品として保管されており、春の秋の大祭事の際にのみ一般公開されます。

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