鎌倉時代の悲劇の英雄・源義経に仕えていたことで有名な武蔵坊弁慶。
岩融(いわどおし)は、その武蔵坊弁慶が愛用した大薙刀であったと伝わっています。
岩融はいつ頃、誰が作った刀?
刃の部分だけでも三尺五寸、つまり1メートル以上もあったと言われる岩融には、平安時代の名匠・三条小鍛冶宗近の銘があったそうです。
奇しくも弁慶の主・源義経所用の「今剣」も宗近の作といわれていますが(ついでに言うと、静御前が使っていたという薙刀も宗近作だとか)、なにか関係あるんでしょうか…。
実は今剣も岩融も、実在したかどうか定かではありません。
(静御前が薙刀を使ったという史実もありませんし…)
岩融に至っては、その所有者である武蔵坊弁慶が実在しない人物なのでは?と言われているくらいなので、事実関係を調べるのは中々に難しそうです。
岩融の所有者、武蔵坊弁慶
武蔵坊弁慶は実在したのか?
弁慶の主君・義経は小柄で女性と見紛うほどに優美な姿をしていた、と言われています。
ただ、これについては後の世の創作に過ぎないのでは、という見方もあり、実際義経の容姿がどんなものだったのかは分からないのですが、小柄で力が弱かったことは事実だったらしく、そういう記録も残っています。
一方、弁慶は荒くれ者で義経と出会うまでに999人から刀を奪ったという怪力無双の僧兵ですが、五条大橋での義経と弁慶の出会いでは、襲い掛かる弁慶に義経がアッサリ勝利しています。
小柄で非力な義経が怪力の弁慶と一対一で戦って、果たしてそんな簡単に勝てるものでしょうか。
義経は戦の采配は天才的に上手かったようですが、なんとなくご都合主義というか、不自然な感じが残るエピソードです。
しかも、本当は二人が出会ったとされる時期、まだ五条大橋はなかったそうな…。
(ふたりの出会いは五条大橋でなく堀川小路から清水寺だという説もあります)
また、弁慶は18か月も母の胎内にいたとか、生まれた時には歯も髪も生え揃っていたなど、存在そのものが妙に現実離れしているのも気になるところです。
弁慶所用の岩融が、三条小鍛冶宗近作といわれるようになったのは何故なのか?
弁慶は、熊野別当の子だといわれていますが、生まれて間もなく比叡山に入れられています。
さすがに熊野に三条宗近が活動した記録は無いでしょうから、宗近と弁慶の接点があるとすれば比叡山と言うことになるでしょう。
例えば鞍馬寺に今剣を奉納したように、宗近がなんらかの形で比叡山に刀(この場合は薙刀ですが)を残していれば、それを弁慶が持ち出すことはありうるかもしれません。
そう思って情報を漁っていると、こんなサイトを見つけました。
比叡山に程近い京都大原の「祖世野池(そよのいけ)」という場所を訪れた人のブログなのですが、この祖世野池で、大原真守という刀工が刀を打っていたというのですね。
大原真守の父は、大原安綱。有名な「国宝・童子切安綱」を鍛えた人物です。
童子切安綱の伝説で有名なのは、これを用いて酒呑童子を退治したというもの。
しかし、酒呑童子を退治したという伝説を持つのは童子切安綱だけではありません。
河内有成――つまり、三条小鍛冶宗近と思われる人物が鍛えた「石切丸」もまた、酒呑童子を退治したという伝説を持つ刀なのです。
ここで、こういう勘違いが生まれる可能性がないでしょうか。
「この祖世野池では、酒呑童子を退治した伝説の名刀・童子切安綱を鍛えた大原安綱の息子が刀を作っていたことがある」
ここから息子というワードが抜け落ち、
「祖世野池では酒呑童子を退治した伝説の名刀を鍛えた刀工・大原安綱が刀を作っていたことがある」
ここからさらに大原安綱というワードが抜け落ち、酒呑童子というキーワードで刀工名が混同すると
「祖世野池では酒呑童子を退治した伝説の名刀を鍛えた、三条小鍛冶宗近が刀を作っていたことがある」
みたいな……。
なんなら、
「祖世野池では三条小鍛冶宗近が刀を作っていたことがある」と明言しているサイトさんもありました。
京都大原学院さんのサイトがそうです。
なにか歴史的な資料に基いてそう紹介されているのか、石切丸の作者と童子切の作者を、酒呑童子というキーワードのせいで混同してしまったからそう書かれているのかは不明ですが、やはりここで微かにではありますが、弁慶と宗近を結ぶ糸は見つかりました。
武蔵坊弁慶のモデルは酒呑童子では?
武蔵坊弁慶の容姿や生い立ちは、一説に伝わる酒呑童子の容姿、生い立ちに酷似しています。
酒呑童子は一説では越後国の鍛冶屋の息子として産まれ、母の胎内で16ヶ月を過ごしており、産まれながらにして歯と髪が生え揃い、すぐに歩くことができて5 – 6歳程度の言葉を話し、4歳の頃には16歳程度の知能と体力を身につけ、気性の荒さもさることながら、その異常な才覚により周囲から「鬼っ子」と疎まれていたという。
※大変な美少年だったとか鬼だったとか盗賊の頭目だったという説もあり
どうでしょう。弁慶とそっくりじゃないですか?
もし武蔵坊弁慶という存在が創作だったなら、弁慶の人物像を作り上げた作者は、酒呑童子伝説から何かしらのインスパイアを受けたか、酒呑童子に強い思い入れがあったという可能性が結構高いのではないでしょうか。
だとすれば、弁慶の愛用した大薙刀が、酒呑童子を倒した刀の作者・三条宗近が打ったものだった、という「設定」も全然ありという気がしてきます。
奇しくも弁慶が暮らした比叡山近くの泉には、三条小鍛冶宗近が刀を打っていたというおあつらえ向きの伝説まで残ってるのですから。
(実際はその泉で刀を打っていたのは大原安綱の息子・大原真守だったわけですが)
たとえ実在の証拠がなくても…
前述のように弁慶という人物が実在したかどうかについては結構怪しい部分もあるのですが、もしも弁慶がいなければ、有名な能の「安宅」や、歌舞伎「勧進帳」もないわけで…。
そう考えるとそれはそれで残念です。
弁慶も岩融も存在を証明することは確かに難しいかもしれませんが、「存在しなかった」と証明されたわけでもありません。
「弁慶って本当にいたのかなぁ?」と検証してみるのも楽しいですが、「武蔵坊弁慶は岩融を振るって義経を守り続け、最後には矢の雨の中で立ったまま息絶えるほど激しい忠義を義経に捧げたんだ」と信じるのもまた同じくらい楽しいものです。