【加州清光】沖田総司が池田屋で佩用

加州清光は、新選組一番隊組長・沖田総司が佩用していた刀として知られています。
その知名度ゆえに、「三日月宗近」や「鶴丸国永」といった号の付くような伝説の名刀と同列の品であるかのように並べて紹介されることが多いのですが、それらの刀と加州清光とでは、残念ながら刀としての価値は天と地ほど違います。
当時浪人に過ぎなかった総司が買える範囲の刀なわけですから、それは当然と言えば当然ですね。
(もし現代で総司が実際に使っていた清光でも発見されれば、その価値は凄いものになりそうですが)

加州清光は、いつ頃誰が作った刀?

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加州清光は、室町時代末期に加州(加賀)で興った刀工で、幕末までに12代続いたと言われています。

乞食清光について

6代目の清光が、非人小屋(窮民収容所)で刀を作っていたという異色の経歴を持っていることから「乞食清光」として有名です。
6代目清光が非人小屋に住んだ理由として、「死体の多い環境で試し斬りをするために非人小屋にいた」などという空恐ろしい説などもありますが、実際は6代目清光の頃、加州で大きな水害があり飢饉が起こって生活に窮したせいで非人小屋に住むようになったのだとか。

戦国時代には、戦闘で破損した刀を修理するために、戦場に刀工を数十名連れて出陣したという記録が残るほど、刀鍛冶というのは需要のある仕事でした。
しかし天下が泰平になった江戸初期、その需要はどんどん減少し、刀工の生活は困窮したと言われています。
おそらく6代目清光が非人小屋で暮らすようになったのも、そうした時代背景が関係しているのでしょう。
7代目清光も同じく非人小屋暮らしていたそうです。

加州清光を使っていた人物

悲劇の天才剣士・沖田総司

加州清光は比較的廉価で市場に出回っていた刀ですから、所有していた人、使っていた人は多いでしょう。
幕末最強の剣士のひとりとして名高い新選組一番隊組長・沖田総司も、加州清光ユーザーの一人でした。

日常的に実戦を繰り返していた新選組にとって、刀が破損したりそれを修理に出したりすることは日常茶飯事。
それゆえに総司も常に複数本の刀を使いまわしていたと考えられますが、総司は元治元年6月5日、命懸けの大捕り物・池田屋事件に臨むにあたって、この加州清光を携えて出撃しています。

池田屋に集まっていたのは「京の都に火を放ち帝を攫ってしまおう」などという過激な思想を持つ維新志士たち…、戦えば激戦になることは容易に想像がつきます。
実際、志士側にも新選組側にも複数名の死者が出て、新選組幹部の永倉・藤堂も重傷を負いました。
このような激しい戦いに携行する刀として清光を選ぶのですから、総司も清光の性能に一定の信頼を置いていたのでしょう。

結果としてこの戦いで加州清光はボロボロになり修理に出されますが、その後の行方は不明となっています。
帽子と呼ばれる先端部分が折れるほどの破損だったそうですから、もしかしたら修復不可能でお役御免になってしまったのかもしれません。
(たとえ破損してもう使えないとしても、残しておいてくれたら貴重な歴史的資料になったでしょうに…。当時の総司にはそんなこと、思いもしない事だったのでしょうね)

なお、沖田総司所用の清光が、有名な6代目の「乞食清光」の作だったのでは、という説がありますが、代によって作風に顕著な特徴でもあるならともかく、そうでないなら、すでに失われた総司の清光が何代目の作によるものだったのかを判別するのは難しいですね。
刀を購入した総司自身でさえ、それが何代目の清光の作かなんて分からなかったんじゃないかなぁ…。

6代目清光は総司が生まれる200年近く前の人物です。
その後も清光の名は代々受け継がれており、総司と同じ時代に活躍していた12代清光は加州を代表するほどの名工だったそうですから、時代的にはそっちの方が近い気もしますが。

総理大臣にまで上り詰めたのち、戦犯として処刑された東条英機

現役の陸軍大将でありながら、第40代総理大臣に就任し、最終的に戦犯として処刑された東条英機。
彼が、なぜか軍刀として愛用していたのが加州清光だったそうです。
戦犯として処刑された後、その清光はひっそりと売りに出され、東条家を離れました。

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