【三日月宗近】天下五剣中、最も美しいと称される国宝

三日月宗近は、天下五剣中、最も美しいと称される名物中の名物で、国宝にも指定されています。

三日月宗近はいつ頃、誰が作った刀?

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三日月宗近は、平安時代の中でも特に穏やかで長閑な時代とされる平安中期に、三条小鍛冶宗近によって作られました。
一条天皇のもと、紫式部や清少納言らによる平安女流文学が花開いたのもこの頃です。
三日月宗近の優美な姿は、こうした時代背景が反映されているのかもしれません。

三条小鍛冶宗近の出自

宗近の出自については、貴族出身であるとか、御所の與丁であったとか、東三条兼家に仕えていたとか、諸説あります。
(ちなみに東三条兼家は一条天皇の祖父にあたる人物)
もし本当に彼の出自が貴族であったなら、彼の作る刀の姿があれほど優美で美しいのは、時代背景のみならずその出自もまたその作風に影響しているからなのかもしれませんね。

三日月宗近は後世の人がつけた名称、元の名は「五阿弥切」

三日月宗近というどこか雅な呼び名は、その打ちのけ(刃紋の一種)が三日月のように見えることから後世の人が付けた呼び名だそうで、元は「五阿弥切」という名称だったそうです。

五阿弥…というと、人名でしょうか。
現代では広島などで多い苗字です。

三日月宗近は、あまり実践的な形をしておらず、太刀の磨り上げを積極的に行ったと言われる豊臣秀吉に所蔵されたという来歴がありながらも、磨り上げはされていません。また試し斬りなどに使われた記録も無いことから、不殺の剣――――つまり、人を殺したことの無い刀ではないか、という説もあります。

太刀は戦闘だけでなく、魔除けや儀式用として使われることも多いので、それもありえない話ではないのですが、「○○斬り」という太刀の呼び名は、たいてい何かを斬ったとされる逸話が元になって付く名です。

三日月の元の名が「五阿弥切」だったというなら、何か…もしくは誰かを斬ったこともあるのかも…いやないのかも…。

これについては、専門家の間でも意見の分かれるところだそうです。

三日月宗近の所有者たち

秀吉の正室・高台院から徳川家、そして東京国立博物館へ

三日月宗近の来歴として確かな記録が残っているのは、太閤秀吉の正室・高台院(ねね)から徳川秀忠に贈られ、徳川家の所有になったところからです。

その後、三日月宗近は第二次世界大戦後まで徳川家が所有し、一般人の所有を経て東京国立博物館に寄贈され、現在に至ります。

元は足利将軍家秘蔵の名刀だった?

三日月宗近は、元は足利将軍家が所有しており、永禄8年(1565年)の「永禄の変」で惨殺された将軍・足利義輝が、最期の時にこれを振るって戦っていたという説があります。

豊臣家に三日月宗近が渡ったのは、この時に戦利品として三日月宗近を手にした三好政康がのちに秀吉にこれを献上したからだとか、足利義輝の弟・足利義昭が秀吉に下賜したからだ、など諸説あるのですが、どの説にも根拠となる資料は見つかっていません。

尼子の忠臣として有名な名将・山中幸盛が佩用していた?

どこをどう辿ってそうなったのかは不明なものの、三日月宗近を山中幸盛が一時期佩用していたという説があります。
山中幸盛という人物は、とにかくめちゃくちゃ強かったという伝説の武将で、主家である尼子家を再興するため長年忠義を尽くし、かの織田信長に「良い男である」と言わしめた好漢でした。

主家の再興を三日月に祈念して、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったというエピソードはあまりに有名ですね。

なお、三日月宗近を山中幸盛が佩用していたとされる根拠は、徳川家によって製作された「享保名物帳」ですが、ここに記された「高台院に仕えた山中鹿之助」と山中幸盛は別人では?とも見られており、この説の真偽のほどは定かではありません。

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