陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)は、坂本竜馬が暗殺された時に所持していた刀として有名です。
陸奥守吉行は、誰がいつ頃作った刀?
吉行は江戸時代初期に中期に土佐で活躍した刀工です。
その優れた手腕ゆえに土佐藩鍛治奉行として招聘された吉行は、土佐でも特に優れていると評判になり、藩士たちはこぞって吉行の刀を求めたといいます。
元々は陸奥国中村(福島県相馬市中村)、または摂津国住吉(大阪府大阪市住吉区)出身で、刀工・播磨守吉成の次男として生まれ、山岡家の養子となり、後に父や兄とともに大坂の刀工・大和守吉道(初代)に入門しました。
吉行の兄、上野守吉国も元禄の始め頃に土佐藩のお抱え刀工となっていますし、父である播磨守吉成も業物の作者として知られています。
吉行は、刀工一家産まれの、いわばサラブレッドだったのでしょうか。
本名は森下平助。土佐に移住したことから、後に土佐吉行とも呼ばれました。
陸奥守吉行の所有者たち
坂本竜馬が心の支えとした坂本家の宝刀「陸奥守吉行」
竜馬は、死の前年慶応2年(1866年)12月、21歳年上の兄である坂本権平に、坂本家に伝わる宝刀・陸奥守吉行を自分に送って欲しいと無心しました。
元々竜馬は、「刀なんてもう古い、これからはコレ!」と最新式のリボルバーを愛用していた人物ですが、この頃の竜馬は、いつ誰に殺されてもおかしくなかったほど危険な潜伏生活を送っている真っ最中です。
暗殺の危機に晒されながら国事に奔走する日々の中で、さすがに何か思うところがあったのか、
「死候時も猶御側ニ在レ之候思在レ之候」
最後の時にこの刀が傍にあると思えば心強くいられる…
兄への手紙にこんな事を書いていました。
自分がなすべき仕事に命を懸ける覚悟、その一方で家族や故郷を懐かしく慕わしく想う心、さまざまな心情がこの一節から伺えます。
そんな若い弟の気持ちを汲み取ったのでしょう。竜馬の兄・権平は、竜馬の願いを快諾します。
陸奥守吉行は西郷隆盛に託され、竜馬の元へと届けられました。
竜馬がこれを受け取ったのは、ちょうど海援隊設立などの用事で長崎にいた頃のことです。
吉行を受け取った竜馬の喜びは相当なものだったそうで、これを届けに来てくれた西郷の近習に、自分がそれまで差していた鈴木正雄二尺八寸二分を与えたほどでした。
竜馬は吉行を色んな人に自慢していたそうですし、6月24日に兄・権平に宛てた手紙の中でもその喜びを伝えています。
本当に、よっぽど嬉しかったんでしょうね。
結果として、竜馬は本当にこれを手にした状態で暗殺されることになりましたが、望みどおり、最後の瞬間に陸奥守吉行が手元にあったことは、彼にとって少なからず救いとなったのではないでしょうか。
竜馬の死後、吉行の行方は…
竜馬の遺品となってしまった陸奥守吉行は、後に竜馬の姉・千鶴の息子、坂本直へと伝わります。
そして、明治31年(1898年)に直が亡くなった後は、坂本家の7代目当主となった坂本弥太郎へと伝わりました。
その6年後の明治37年(1904年)、浦臼聖園小学校で「坂本龍馬遺品展」が開かれ、血染めの掛け軸や紋服など多数の遺品と一緒に「陸奥守吉行」も展示されています。
(小学校で血染めの掛け軸とか大丈夫なんでしょうか…^^;)
また、明治43年(1910年)8月30日付で、坂本弥太郎氏が留に書いた預かり証にも「吉行」の記録があります。
この時の記録によると、明治43年の時点では、刀傷が付いた鞘は残っていたようですが、柄はもう失われていたようです。
弥太郎氏はとても几帳面な人物だったそうで(竜馬も筆まめだったそうですし、ものを書いて残すのが好きな家系なのでしょうか)、この人が残した資料のお陰で色々な事が現代へと伝えられています。
大正2年(1913年)12月26日大火事で竜馬の遺品と共に「陸奥守吉行」も焼失し、昭和6年(1931年)京都国立博物館に寄贈された吉行は再刃されたものだったと最初は思われていたのですが、実は再刃ではなく、刃取りをしただけだったことが分かったのも、弥太郎氏によって昭和5年に作成された「寄贈目録控え」のお陰でした。
それによると、吉行は火事の際、無反りになってしまい、鞘は焼けてしまったそうです。
刃取りは、拭いを行うと刃文も黒くなってしまうために、刃文を白く浮き立たせ、地刃を白黒の対照で引き立たせるために行う。刃艶を刃幅を見ながら適当なサイズに切り、親指で押えて作業する。この際、本阿彌流では棟側から刃を拾う。一方、藤代流は刃側から刃を拾う。
拭い
刀剣を鍛錬する折、刃に用いる鋼を鍛錬した際に飛び散る鋼の粒を乳鉢で微細に摺る。これを鉄肌(かなはだ)と呼ぶ。鉄肌を油で溶き、吉野紙で漉しながら粗い粒が入らないように注意して刀身に乗せ、青梅綿で磨いていく。これによって、砥石目は見えなくなり、鍛え肌が立ち、地が青黒くなる。青梅綿で刀身を拭うような作業のため、材料そのものを「拭い」と呼んだり、作業を「拭い差し」と呼ぶ。