日本号は、いつ頃誰が作った槍?
天下三名槍のひとつ、日本号。
「にほんごう」「ひのもとごう」とも読まれるこの槍は、なんと槍でありながら正三位の位を持つ伝説の槍です。
重さ2.8kg、刃長1尺以上もある大身槍で、刀身に施された倶利伽羅(くりから)龍の浮彫は、それが武器であることを忘れさせるほどの美しさ。
元は皇室所有の御物であったためか、無銘――つまり作者は不明となっていますが、金房派の作とみられています。
※古来、刀や美術品を貴人や雇い主から依頼されて作る場合には、相手に遠慮して、あえて銘を入れないという習慣がありました。
(現在でも皇室に献上される刀は無銘だそうです)
日本号の所有者たち
黒田節の由来、福島正則 VS 母里友信の飲み比べ
正親町天皇から足利義昭に下賜された日本号は、義昭から信長、信長から秀吉、そして秀吉から福島正則へと与えられます。
この福島正則という人物は、豊臣家では「賤ヶ岳の七本槍」の一人として名を馳せた猛将でしたが、ひとつ、とても悪い癖を持っていました。
それは、酒癖。
酒乱と表現しても良いほどのその酒癖の悪さで、彼はいくつか歴史に残る大失態を犯しています。
黒田家家臣・母里友信が思いがけず日本号を手に入れるきっかけとなった出来事も、正則の酒癖が原因でした。
ある日、黒田長政が正則の元に、母里友信(もりとものぶ)を遣いに出しました。
母里友信も酒好きな男だったため、長政は酒乱の正則との酒の上でのトラブルを警戒して、母里に「先方で杯を進められても絶対飲まないように」と言いつけます。
正則はやって来た母里に、案の定しつこく酒を進めるのですが、これを母里が固辞し続けると、「黒田の者は、これしきの酒も飲めぬのか」と挑発します。
そして、驚くほど巨大な杯を持ち出してきて、
「これを飲み干せば、何でも褒美を取らす」
と言いました。
(どうしてそんなに酒を飲ませたかったのでしょうね……)
結果、母里は見事その巨大杯の酒を飲み干し、正則が所有していた天下の名槍・日本号を褒美として受け取ったのでした。
翌朝、酔いが冷めた正則は慌てて日本号を返してくれと母里に頼みに行きましたが、返してはもらえませんでした。
このエピソードは民謡「黒田節」となって下記のような歌詞で後世に伝えられています。
酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士
ある時、正則の酒癖の悪さに対して諫言した忠臣に対して、酔いに任せて切腹を命じて死なせた挙句、翌朝にはそれを覚えていなかった、ということがあったのです。
正気に戻った後、家臣の首に泣いて謝ったそうですが、死んだ家臣の命は戻りません。
酒は飲んでも飲まれるな、とはよく言ったものです。
母里家から消えた日本号は、時を経て無事黒田家に戻り、今は福岡市博物館に
日本号はその後、代々母里家に伝わりますが、明治30年代に10代目当主の甥によって持ち出され、それを玄洋社の頭山満氏が1,000円で買い取っています。
そして、頭山氏はそれを、侠客・大野仁平氏に無料で与えたそうです。
その理由は、「大野仁平が欲しがったから」。
しかも、大野氏の死後、遺族が日本号を頭山氏に返却しようとしても、あげたものだからと受け取らなかったとか。
幕末に共に討幕軍として戦ったふたりにどのような結びつきがあったのかは分かりませんが、ずいぶん豪気で気前の良いことです。
結局、実業家の安川敬一郎氏が一万円で買い取り、旧藩主の黒田家に贈与したことで、日本号は無事黒田家へと戻ったのでした。
その後、昭和の時代の黒田家当主・黒田長礼氏の遺言により、日本号は福岡市に寄贈され現在は福岡市博物館に展示されています。