天下五剣のひとつである鬼丸国綱は現在、御物――皇室所有の財産として宮内庁によって管理されています。
この太刀は、持ち主の夢に翁の姿になって現れ、
「汝を苦しめている小鬼を斬ってやるから錆を落とせ」
と直談判したという伝承があります。錆を落とすと本当に見事鬼を斬ったそうです。
しかし、なぜか天下人となった豊臣秀吉、徳川家康ともに、これを手元には置きたがりませんでした。
また、のちにこれを献上された天皇家でも、鬼丸は「不吉な刀である」と本阿弥家に戻してしまったという歴史があります。
一体この鬼丸にはどんな力が宿っているというのでしょうか。
鬼丸国綱は、誰がいつ頃作った刀?
鬼丸国綱は、鎌倉時代の刀工・粟田口国綱によって作られた刀です。
国綱は鎌倉幕府第5代執権である北条時頼によって招聘された、粟田口六兄弟の末弟でした。
粟田口一派の粟田口六兄弟は、六人中四人までもが後鳥羽上皇の御鍛冶番を務めたと言われる名工です。
粟田口六兄弟
- 国友:六月番
- 久国:閏月番
- 国安:四月番
- 国清
- 有国
- 国綱:隠岐国番鍛冶 五月六月
※隠岐御鍛冶番は後世の創作とも言われています。
ちなみに長男の国友の孫が「薬研藤四郎」などの作者として有名な藤四郎吉光です。
鬼丸国綱の名の由来
鬼丸の号には、こんな由来があります。
鎌倉幕府5代執権・北条時頼が、夜毎夢に現れる小鬼に悩まされていた時期のこと。
その夢の中に、お爺さんに変化した国綱の太刀が現れて、時頼に言ったのです。
「我は、常に汝を守っている。妖の者も退けようと思うが、汚れた人の手に触れられたせいで錆びてしまい鞘から出られない。
早く妖を退けたければ、清浄な人の手によって錆を落とすべし」
時頼は言われたとおり、太刀の錆を落とします。
そうしてその太刀を壁に立てかけておいたところ、自然とそれが倒れ、そばに置いてあった火鉢の足を切断しました。
よく見てみると、太刀に斬られた火鉢の足は銀製の小鬼で、夢の中で時頼を苦しめていた鬼とそっくりだったというのです。
偶然鬼の憑いた火鉢を買ってしまったのか…、それとも誰かの呪詛だったのか。
ともあれ、これ以来、時頼が鬼に苦しめられることはなくなりました。
これ以来、この太刀は「鬼丸」と呼ばれるようになります。
鬼を斬ったという話の他にも、倒れただけで銀製品を両断してしまったという物理的な切れ味の凄さにも注目したいエピソードですね。
なぜか短命な鬼丸国綱の所有者たち
北条時頼
時頼は、第五代北条執権にして、鬼丸の号を付けた人物です。
若くして父や兄を失くし、娘も早世し、自身も病がちで37歳の若さで亡くなっています。
北条高時
高時は、鎌倉幕府第14代執権でした。
討幕勢力である上野国の御家人・新田義貞新田軍に攻められ、北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺で一族や家臣らとともに自刃しました。
享年は31歳。
歴代の北条執権を担った人物はかなりの割合で若くして亡くなっています。
6代執権・北条長時(享年35)
7代執権・北条政村(享年69)
8代執権・北条時宗(享年34)
9代執権・北条貞時(享年40)
10代執権・北条師時(享年37)
11代執権・北条宗宣(享年54)
12代執権・北条煕時(享年37)
13代執権・北条基時(享年48)
鎌倉時代の平均寿命そのものが20代半ばだとか45歳くらいだ、とも言われていますが、これは赤ちゃんや幼児が無くなる確率がかなり高いからで、長生きする人は普通に長生きしています。たとえば、初代執権である北条時政は77歳まで生きていますし、源頼朝も55歳、後鳥羽天皇は59歳、後白河天皇も65歳まで生きています。
食べるものも満足になく、怪我や病気に対しても何もできない農民などは寿命も短いでしょうが、執権や貴族ともなれば栄養面や衛生面の条件も全く異なるはずなので、そもそもが平均よりは長く生きられそうなものです。
にもかかわらず、北条執権を担った人々がこれほどまでに短命なのはいったいなぜなのか。
鬼丸は、持ち主を守る刀なのか、はたまた…。
なお、時頼以降の執権で最も長生きした7代執権・政村(享年69)は、中継ぎ的な意味合いでちょこっと執権を継いだに過ぎず、執権の職に就いた時にはすでに60歳になっていました。
54歳まで生きた11代執権・宗宣もまた死の前年に一年だけ執権を務めただけでした。
新田義貞
新田義貞は、第14代執権・北条時高を自刃させ、鬼丸を手にしました。
鎌倉幕府を滅亡へと追いやり、後醍醐天皇による建武新政を樹立させた主要人物の一人です。
しかし、新田義貞もそれからわずか5年後、戦に負けて自刃するという運命をたどりました。
そして鬼丸は、新田義貞の首と共に足利尊氏の元へと送られます。
時代のせいもあるとは思いますが、鬼丸の所有者は、やはり短命な人が多いようです。
ちなみに、室町幕府最後の将軍・足利義昭の手から信長・秀吉の手に渡るまで、鬼丸は足利家に伝来します。
足利将軍家は15代続き、50歳以上まで生きた人は4人、40歳以上まで生きた人は3人います。
半分は平均以上、半分は早死という感じでしょうか。
豊臣秀吉は鬼丸を本阿弥家へ預けた
秀吉は、天下五剣と呼ばれる名刀のうち、数珠丸以外の四振り全てを所有していました。
そして、三日月宗近は正室・ねねに、大典太光世は前田利家に贈っています。
一方で、鬼丸国綱や童子切安綱は手元に置きたがらず、本阿弥家に預けています。
同じ天下五剣でも、手元に置くものと、置かないもの。
彼がこの線引きをどこでしていたのかを知る由はありませんが、なにか不吉なものでも感じ取っていたのでしょうか。
ちなみに鬼丸は徳川家でも本阿弥家に預けるという処置をしています。
後水尾天皇(ごみずのおてんのう)に献上された鬼丸はしかし…
後水尾天皇に皇太子が誕生した折、徳川家から鬼丸が献上されました。
しかし、なんとその皇太子が崩御してしまい、鬼丸は「不吉な刀である」とされ、本阿弥家に戻されてしまいました。
持ち主不明?鬼丸の行方は
明治に入ると、鬼丸は徳川家からも天皇家からも所有権が明示されず、持ち主が分からない状態になってしまいます。
これに困惑した本阿弥家はその旨を新政府に届け出て、結局、
「後水尾天皇に献上されたものを徳川幕府を通じて本阿弥家に預けていたものである」
ということになり、明治天皇の時代に御物となりました。