天下五剣の内の一振り、大典太光世(おおでんたみつよ)は、凄まじい切れ味を持つ名刀です。
あまりの切れ味に、太刀を仕舞っていた蔵にとまった雀までもが死んでしまったとか、病まで断ち切ったという伝説が残っています。
大典太光世はいつ頃、誰が作った刀?
大典太光世は平安時代、三池派の開祖である三池典太光世(みいけでんたみつよ)によって作られた太刀です。
形状は、茎から刀身の1/5ほどまで、鎬筋(しのぎすじ)に沿って腰樋(こしひ)が入り、かつ短い刀身長に対して非常に身幅が広いという独特なもの。
拵(こしらえ)は、茶色皺革包に萌黄糸巻を施した「鬼丸拵」。
これは前田利常が所有していた際、その好みに合わせて本阿弥光甫が制作したものです。
大典太光世の試し斬り
幕府の御様御用(おためしごよう)を務めた山田浅右衛門が、この大典太光世で試し斬りを行った際、重ねて置いた3つの死体の内ふたつまで切断し、三つ目も少し切って背骨で止まったと言われています。
余談ですが、同じ天下五剣のひとつに数えられている童子切安綱もまた、試し斬りでその驚異的な切れ味を実証しています。
なんと6つの死体を一刀で切断した上、土台にまで刀が食いこみました。日本刀ってやっぱりすごいんですね。
御様御用を務めた山田浅右衛門については、【大和守安定】のページで詳細を紹介しています。
大典太光世の所有者たち
足利家から豊臣家、そして前田家へ
大典太はもともとは足利将軍家伝来の家宝のひとつでしたが、足利家が没落すると、豊臣秀吉のものになったといわれています。
そしてその後、詳しい経緯は不明ながら、豊臣家から前田家へと伝わりました。
秀吉が前田利家に形見として譲ったとか、家康に譲ったものが秀忠の代になって前田家に譲られたとか諸説ありますが、実際のところは定かではありません。
前田家は、秀吉が溺愛した養女・豪姫の実家でもあり、豊臣家とはとても深い結びつきがありますから、秀吉から利家に譲られたという説は普通にありそうな気もしますね。
ともあれ、前田家に渡った大典太は、「静御前の薙刀」「三条小鍛冶宗近の刀」と並んで、前田家の三種の神器として大切に受け継がれ、流出も消失もすることなく、現代になってもなお「前田育徳会」で所蔵されています。
さすが戦国一の律義者と讃えられた前田利家の子孫というか、きっちりしてます。
昭和31年(1956年)6月28日には重要文化財に指定され、翌年の昭和32年(1957年)2月19日、国宝に指定されました。
ちなみに、前田家が大典太を保存していた蔵は「鳥とまらずの蔵」と言われています。
大典太のあまりにも凄まじい切れ味は、それを仕舞った蔵にとまった雀まで切ってしまうため、いつしかそう呼ばれるようになったのだとか。
前田家16代当主前田利為侯爵により設立された公益法人育徳財団。
加賀藩主家伝来の文化遺産の保全のため、大正15年(1926年)2月26日に設立されました。
大典太光世の名の由来
加賀の前田家には、三池光世が作った太刀が二振りあったそうです。
で、単純に長い方を「大伝太」、短い方を「小伝多」と呼んでいたそうな…。
非常にシンプルな由来ですね。
豪姫の病を斬った大典太
「もし豪が男だったら関白にしたのに」と秀吉に言わしめるほど秀吉とその妻ねねから可愛がられて育った豪姫ですが、病弱でお産のたびに大病を患っていたそうです。
秀吉の死の三年前の文禄4年(1595年)にも病にかかり、この時は「狐が憑いた」と大騒ぎになりました。
秀吉は、伏見稲荷に「もし豪から出て行かねば日本中の狐を殺す」と手紙を出したそうです。
本当に凄まじいまでの溺愛ぶりですね。
この時、豪の実父である前田利家が、大典太で豪姫の病を断ち切ったとも言われています。
大典太はこの時、貸し出されただけだったのか、それともこの時には既に前田家に譲られていたのか…。
肝試しのお守りで貸し出された大典太?
「伏見城の千畳敷の廊下を夜に歩くと、”何か”が刀の小尻を掴んできて、通れないのだ…」、ある時、そんな怪談を加藤清正や黒田長政がしていたそうです。
前田利家が「そんなわけがあるか」と取り合わずにいたら、「じゃあ前田様行ってみてくださいよ」という話になり、それを聞いていた秀吉が利家に「これを差して行け」と大典太を渡しました。
大典太を差した利家は、その廊下を何事もなく無事渡りきることができたと言います。
小尻(鐺とも書く)こじり/鞘の先端部分のこと