【陸奥守吉行】竜馬暗殺の瞬間を見届けた名刀
陸奥守吉行は、坂本竜馬が暗殺された時に所持していた刀として有名です。竜馬は、死の前年慶応2年(1866年)12月、21歳年上の兄である坂本権平に、坂本家に伝わる宝刀・陸奥守吉行を自分に送って欲しいと無心しました。元々竜馬は、「刀なんてもう古い、これからはコレ!」と最新式のリボルバーを愛用していた人物ですが・・・
陸奥守吉行は、坂本竜馬が暗殺された時に所持していた刀として有名です。竜馬は、死の前年慶応2年(1866年)12月、21歳年上の兄である坂本権平に、坂本家に伝わる宝刀・陸奥守吉行を自分に送って欲しいと無心しました。元々竜馬は、「刀なんてもう古い、これからはコレ!」と最新式のリボルバーを愛用していた人物ですが・・・
村正と聞くと、「妖刀村正」という言葉を連想される方も多いのではないでしょうか。 手にしたら災いでも降りかかるのか、それとも手にした者の正気を失わせて凶行に走らせるのか、「妖刀」というその言葉は色々と恐ろしい想像を掻き立てます。 しかし、実は村正は、別に怪しい刀工ではありません。 極めて技巧的な作風を持つ、伊勢国の名工でした。
薬研藤四郎には、その名の由来となった不思議な逸話が残っています。 持ち主・畠山政長が戦に破れ切腹に臨む際、いくらこれで腹を切ろうとしても、なぜか全く切れませんでした。苛立った政長が刀を放り投げると、刀は置いてあった薬研に偶然当たったのですが、なんと全く切れなかったはずのその刀が、鉄製の薬研を簡単に刺し貫いたというのです。
安綱の棲んでいた大原のあたりは密教系の仏教寺院が一大勢力を誇っていた場所で、古事記では日本神話の女神・イザナミが葬られた場所でもあります。 そんな地で鍛えられた童子切には、なにか不思議な力が宿っていたのかもしれません。 江戸時代、徳川家に渡った童子切は、二代将軍秀忠の娘・勝姫が輿入れする際、嫁ぎ先の福井藩主松平忠直へと贈られますが、それ以降、松平家には様々な困難が降りかかります。
友成の太刀は、優美な姿をしているものもあれば豪壮なものもあるなど、多彩。 中でも、国宝に指定されている「太刀 銘 友成」(厳島神社所蔵)の太刀は、当時の刀工の技術の最高峰の作だと言われています。
三条小鍛冶宗近といえば、歴史上で主だった刀工を紹介する書籍などでは真っ先に名が挙がる、名匠中の名匠です。 その名が示す通り京都三条に住んでいました。 一説によると、もともとは貴族だったにもかかわらず刀工になったそうです。 彼の作る刀がことさら優美な姿をしているのは、平安時代の雅な文化が花開いたという時代背景の影響のみならず、もしかしたらその出自にも関係があったのかもしれません。
日本刀は、刀身だけで使用するわけではありません。常に拵(こしらえ)とセットで使用します。 拵とは、刀身に柄と鞘を付け、鍔や額縁、各所の金具、腰に帯びるための糸や革などの総称です。 刀身が一人の刀匠によって作り上げられるのに対して、拵は漆や金属、染色など様々な素材や工芸技術が用いられています。
ひとくちに日本刀と言っても、太刀や打刀、小太刀、短刀、脇差など様々な種類がありますよね。 ここでは、そうした日本刀の種類について解説します...
童子切安綱は、平安時代中期の刀工・大原安綱が作った刀です。 現存する拵えは安土桃山時代に制作されたものでそれ以前の姿については分かっていません。 伝説の酒呑童子退治に用いられた刀である、という伝説はあまりに有名ですが、他にも下記のような出来事が伝え残っています。
刃の部分だけでも三尺五寸、つまり1メートル以上もあったと言われる岩融には、平安時代の名匠・三条小鍛冶宗近の銘があったそうです。 奇しくも弁慶の主・源義経所用の「今剣」も宗近の作といわれていますが、なにか関係あるんでしょうか…。