獅子王はいつ頃、誰が作った刀?
「獅子王」は無銘――つまり、作者不明の刀です。
平安時代末期の大和刀工の作、ということしか分かっていません。
ただ、無銘だからといって、どこの馬の骨とも知れない刀工が作った無価値な刀なのかというと、そうではありません。
古来、貴人や雇い主から依頼されて刀を収める場合は、相手に遠慮してあえて銘を入れないという習慣があったそうです。(現在でも皇室に献上される刀は無銘です)
市場に流通させるならともかく、依頼主に直接納品するのに、わざわざ銘を入れずとも誰の作なのかは十分分かっているから、という側面もあるでしょう。
実際この獅子王は天皇家の所有だったようです。つまり獅子王は、天皇家から勅命を受けるほどの高名な刀工によって打たれた刀ということになります。
獅子王の所有者たち
鵺退治の伝説を持つ平安時代の武将・源頼政
近衛天皇の御世で、怪異がありました。
ある時から、清涼殿(御所内の帝の居住区)に毎晩のように黒煙が立ち込め、不気味な獣の鳴き声が響き渡るようになったのです。
帝は病に倒れてしまい、薬も祈祷も効きません。
この怪異を退けるよう命を受けたのが弓の名手・源頼政でした。
頼政は、「酒呑童子を討ち取った」という伝説を持つ先祖・源頼光から受け継いだ弓で、清涼殿を包む不気味な黒煙に向かって矢を放ちます。
すると、矢を受けた黒煙は悲鳴を上げながら鵺の姿になり、地に落ちました。
これにより帝の病はたちまち良くなり、頼政は褒美として天皇家に伝わる宝刀・獅子王を授かるのでした。
ちなみに、頼政に倒された鵺のその後についてはいくつかの説があります。
鵺の祟りを恐れた人々がその骸を鴨川に流し、流された骸が巡り巡って芦屋にたどり着たとか、静岡県に鵺の死体が落ちてきたとか、鵺の死霊が馬に化けた、などなど。
どれも割りとドロドロした感じの伝承ですが、愛媛県に伝わる「鵺の正体は頼政の母だった説」だけは少し涙を誘います。
いわく、平家全盛のこの時代、頼政の母が故郷の愛媛に隠れ住んでいて、この地にある赤蔵ヶ池(あぞうがいけ)の竜神に、息子・頼政の出世と源氏再興を祈念したそうです。
すると、母の身体は鵺へと変化し、京へと飛んで行きました。
そして帝を病にして、息子に自分自身を退治させることで息子に手柄を立てさせようとしたのです。
愛しい息子がそうとは知らずに射た矢傷が元で、母は命を落としたそうな…。
時代を超え、天皇家に戻った宝刀は、今は東京国立博物館に
頼政の鵺退治の伝説後、獅子王は関ヶ原の合戦を経て徳川家の所有となり、家康によって土岐勝頼へと与えられました。
以後数百年に渡って土岐家の家宝となっていましたが、明治時代、東久世家を通して天皇家に献上されました。
現在は、獅子王は重要文化財に指定され東京国立博物館に保管されています。