鶴丸国永の作者、五条国永は、謎の多い刀工です。
鶴丸国永は、誰がいつ頃作った刀?
鶴丸国永は、五条国永という平安時代の刀匠によって作られました。
この国永は謎の多い刀匠で、その出自も「五条兼永の実弟」だとか「実子」だとか、はたまた「弟子の子」だとか、いろいろな説があります。
また、かの三日月宗近を鍛えた三条小鍛冶宗近の弟子だという説もあるのですが、国永の活動期間は11世紀後半から12世紀前半とされており、10世紀後半から11世紀前半に活動したと言われる宗近とは、少し期間がズレています。
といっても、宗近の活動期間にも諸説あって、12世紀に活動していたという説もあるにはありますが、そうなると宗近が一条天皇の命で打った小狐丸の伝説などは根底から覆ることになりますね。
12世紀に生きた刀工が一条天皇の勅命で小狐丸を作ることは不可能です。
いずれにせよ一千年も前の話ですから、どれもほとんど伝説みたいな話で、真偽のほどを確かめることはなかなか難しいところです。
ちなみに、現存する国永銘の刀は、太刀三振り、剣一振りの四振りのみ。
その中で最も優れた刀とされているのが鶴丸国永です。
鶴丸という名の由来
鶴丸国永に関しては、その号の由来も明らかになっていません。
一説によると、かつて鶴丸の拵に鶴の文様があったから…とも言われますが、その拵が現存していないため、真偽のほどは定かではありません。
鶴丸国永の所有者たち
平安中期の伝説の武将・平維茂が佩用していた?
鶴丸国永の最古の所有者とされる人物に、平維茂(たいらのこれもち)という人物がいます。
この人は有名な「紅葉伝説」で鬼女を退治した平安時代の豪傑です。
ただ「紅葉伝説」は10世紀前半の出来事……、となると当然のことながらこの伝説に登場する平維茂も10世紀を生きた人物ということになるります。
11世紀後半から12世紀前半に生きた国永が打った刀を10世紀に生きた人が使うことはできませんから、残念ながら鶴松国永の所有者に平維茂がいたというのは、後世の創作でしょうね。
937年(承平7年)、会津に、子宝に恵まれず悩んでいた夫婦がいました。夫婦は思い余って第六天の魔王に祈りを捧げ、その結果女児を授かります。
魔王の力によって授けられた女の子は呉葉(くれは)と名付けられ、美しく、そして不思議な妖力を使う娘に成長し、京へ上りました。
京では紅葉と名乗っていた呉葉は、ある時、源経基の御台所の目に止まって腰元に取り立てられます。
紅葉はその美しさで局へと昇りつめ、やがて経基の子を身ごもりました。
しかしその頃、御台所が罹っていた病が、実は紅葉の呪いによるものだということが比叡山の高僧によって看破され、結局紅葉は水無瀬へと追放されてしまいます。
京での暮らしが忘れられない紅葉は、再び京へ上るための軍資金を集めようと一党を率いて戸隠山を根城に、夜な夜な他所の村を荒らして回るようになりました。
紅葉の噂はすぐに「戸隠の鬼女」として京にまで伝わります。そして、とうとう勅命を受けた平維茂が鬼女討伐に出撃。
さすがの猛将・維茂も、最初は紅葉の妖術によって散々な目に遭わされますが、困った維茂が神仏に祈ると、維茂の夢枕に白髪の老僧が現れ、降魔の剣を授けました。
自らの邪心ゆえに愛を失くした哀れな鬼女・紅葉は、維茂が振るうその降魔の剣によって一刀のもとに首を刎ねられ、33年の生涯を閉じたのでした。
安達氏から北条氏、そして織田信長の手に渡った流転の名刀、最後の行方は…
鎌倉時代の頃、鶴丸国永は秋田城介(あきたじょうのすけ)を務める安達貞泰が所有していました。
この安達氏が弘安8年11月17日(1285年12月14日)の政変・霜月騒動により命を落とすと、経緯は不明ながら、鶴丸国永は北条貞時の手へと渡ります。
一説によると北条貞時は、鶴丸欲しさに安達氏の墓を暴いた…なんて説もあるそうな(怖!)
そして鶴丸は約300年後、今度は北条から織田信長の手へと渡ります。
(北条家から織田家に名刀を献上するようなことがあるとすれば、おそらく天正8年(1580年)以降のことでしょう)
信長はこれを家臣・御牧勘兵衛景則、または三枝勘三郎だと言われていますが、どちらかはハッキリしません。
結局、鶴丸はこの後120年ほど歴史の表舞台から消え去り、元禄16年(1703年)、藤森神社で発見された後、本阿弥家から伊達家へと譲られました。
なぜ藤森神社に鶴丸があったのか、なぜ本阿弥家がそれを持ち出し伊達家へ譲ることができたのか、諸説あるのですがどれも真偽のほどは定かではありません。
最終的には明治天皇の仙台行幸の折に伊達家から皇室に献上されたことで、鶴丸国永は御物となり現在に至っています。